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 会長の歩み

誕生~就職 大工という職業に巡り合うまで

幼少期:手前に座っているのが会長です。
太平洋戦争末期の頃、私の家族は東京から群馬県渋川市に移り住みました。命からがらの疎開で、当時、母のお腹の中にいた私は、終戦直後の1945年10月、お世話になっていた農家宅の馬小屋で産まれました。その後、小学校、中学校時代を群馬県沼田市で過ごし、卒業後に就職。しばらく渋川市内で働いていましたが、世の中が好景気となった東京オリンピックの時代に、兄に進められ上京し、印刷会社に就職しました。
しかし、東京で暮らしを経験する中で、これからの時代は手に職が必要だと痛感。
大工を目指して、ふたたび群馬に戻り、20歳で大工修行の道へと進みました。
なぜ大工だったのか…それは、木を扱い、お客様の希望を叶えた家を建てることが、私自身にとっても、大きな喜びになると考えたからでした。実際に、その喜びは現実となり、やる気や努力にも繋がって、私を大きく成長させてくれました。
生活のためだけでなく、大工という職業そのものの奥深さにとても誇りを感じていました。

独立~結婚 仲間や伴侶に恵まれて

独立した頃。右が会長です。
して、五年の修行を経て25歳の時に、独立。 
なぜ今度は独立を選んだのか…それは、現状のままでは、さまざまなお客様の希望を叶えた家づくりに限界があったからです。
「これからは、同じ思いを持つ仲間たちと一緒に汗を流し、努力しながら、お客様それぞれの希望を丁寧に叶えた家づくりを行いたい。そして、みんなでさらなる喜びを味わいたい。」と夢を抱き、仲間と共にスタートしました。
   独立後、初めて手掛けた家は、トラックも無いまま、バイク1台で資材を運びながら、ようやく仕上げることができました。
その後、 だんだんと仕事もいただけるようになり、日中は仲間をまとめながら大工をこなし、夜は一人で慣れない経理を続けた二年。  
しかし、無理がたたって、27歳の時に体調を壊して緊急入院となり、胃の手術をする事に。 こんな生活をしていたら、体が続かないなぁと思う日々の中、一人の女性との出会いがありました。しっかり者で、思いやりに溢れたその女性に運命を感じ、やがて結婚。
良き伴侶に恵まれた私は、すっかり健康を取り戻し、ここから夫婦二人三脚の歩みが始まりました。

盛山建設の確かな歩み

経理の事を何も知らない妻でしたが、商業科の妹の教科書を借りて独学で勉強し、私の力になってくれました。
さらに、早朝から手伝う仲間のために、朝ご飯やおにぎり、おやつまで用意してくれるなど、家事や育児を抱えながらも、しっかりとサポート役を務めてくれたおかげで、 私は毎日、大工の仕事に全力で取り組むことができるようになりました。
毎晩、お酒を美味しく嗜み、早寝をして明日へと備えることができたのは、妻のおかげと今でも本当に感謝しています。
一方、経営者として、新しい技術を取り入れるためのアンテナを張り巡らせ、知識を得る努力も怠りませんでした。
お客様と接し、学びを得るなかで、十年を目安に新しい種をまいていくことが大切だと気づき、実行してまいりました。
独自の工法として、管柱(くだばしら:基本となる柱)3mを4mに変える事により下屋根を瓦にするシステムや、二階の掃出しの窓を大きくし、ベランダを独立させて雨仕舞の心配が無くなる仕組みを考案しました。
さらに、旭化成建材㈱のへーベルの外壁とのタイアップや、㈱LIXILのスーパーウォール工法の加盟店への参入、RC工法(鉄筋コンクリート)の導入など、時代の流れに合わせて、さまざまな技術を取り入れることで、お客様につねにご満足いただける住まいを提供できるよう技術を更新してまいりました。
私たちはお客様の喜ぶ笑顔を糧に夫婦で支えあい、仲間と協力しあい、時には苦い経験も経て、盛山建設として半世紀以上を歩み続けてまいりました。
現在は息子たち夫婦が、私たちの思いを引き継ぎながら、さらに環境に配慮した、時代にふさわしい家づくりを実践しております。
これからも、二代目共々、どうぞよろしくお願い致します。
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